2018年 07月 23日
未来は誰かの手の中に。 |
プロ野球と大相撲の結果見たさで点けるニュースは、やけに悲しいモノが多くはないかい。自然災害を仕方の無いモノと一口に言ってしまうのは後ろ髪引かれる思いはあるけれど、其処に悲しいドラマはいらないよ、例え其れが真実を報道し、ハッピーエンドだけじゃ無いってリアルだとしても。見たくも無いなら見なきゃいいのは分かってる。でも始まったニュースのチャンネルを変えたり、テレビの電源を落とすのは、もっと良く無い気がしてる。いつだって向き合わねばならない現実が、何も画面越しではないこちら側にも溢れてる。こちら側はいつだってバッドエンド、なんかずっと前から決まってたみたいに、本当にいつだって、そう。ニュースを見てるとこみ上げるモノは、こちら側では噛み潰してる、奥歯で。食いしばって生きている。生きる事はとても辛い。でも可能性に満ち満ちた子供達が、命を落とすニュースを見ると、食いしばって生きている自分すら遣る瀬無くなる。世の中にはホント、悲しいニュースが満ち満ちている。
これからの時代を創るのは、今を生きる子供達だ。もし、彼らに何か一言かけるべきならきっと、ごめんね、其れしか浮かんで来ないんだ。僕を含めて大人たちは嘆いてる。社会と呼ばれる目に見えない流れには、政治、経済、色んなモノが含まれている(らしい)。僕を含めた大人たちは声高らかにこう言うんだ。「未来の子供達の為に!」って。でも、其れは謳い文句、枕詞みたいなもんでさ。子供達の為に、そう言えばほら、聞こえが良くなったり、まるで正しく聞こえるし、自分が偉くなった様に思えちゃうんだ。でも、子供達の未来には、もう僕ら大人はいないんだ。ぶっちゃけて言うならさ、関係無いんだ。だから「未来の子供達の為に」僕ら大人は保身に走るし、「未来の子供達の為に」僕ら大人は自分の利益を優先するし、「未来の子供達の為に」僕ら大人は我を通すんだ。自分で言っておきながら、なんだか少し、悲しくなるね。今を生きる子供達がいつか大人になる様に、僕ら大人も昔は子供だった。僕ら大人は、って言ってきたけど、大人って一体何をしたら大人なんだろう。子供達と呼称した君達は、何をもって子供と呼ぶのだろう。年齢、それとも働いている事、一人暮らしをしていたら大人かな。でも、また一つ悲しい事を伝えてしまう形になるけれど、いじめはダメだと言う大人たちの間でも、立派にいじめはあったりするんだ。いじめだけじゃない。悪口、喧嘩、独り占め。「してはいけません」って言われてる事を、平気でやってしまうんだ、人には言えちゃうんだ。オトナはね、ただ歳を重ねて長く生きてきただけなんだ。「未来の子供達の為に!」と叫ぶオトナは、未来なんて見えちゃいないし、分かってもいないんだ。大人の意味も分からずに、子供との境も着けれずに、オトナは大人の自覚なんて、これっぽっちも持っていないんだ。「気持ちはまだ若い」なんてよく言うけどさ、其れは結構。でも、自分達が創り上げた社会という場所においての立ち位置も、自分達はまだ昔のままだと信じ込んでいる。宿題をしなくちゃいけないのに、遊んでる今が楽しいから其れをやめられないように、オトナ達は未来と銘打った今だけしか見えない政治を執り行う。散らかしたら誰かが手伝ってくれたり、片付けてくれるのを知っているから、「未来の子供達の為に」と言ってはみても、その子達にシワ寄せが来る形しか残せない。オトナ達は「だって自分達の時のオトナもそうだったんだもん、しょうがないよ」って流れに投じる石になる身を固められない。そして僕は、そんな風に思っていながらも、何も変えられない、何もしていない。自分で精一杯、奥歯を噛み締める事しか出来ない。本当にごめん。
何をもって大人と呼べば良いか分からないような事は、実は他にも結構ある。普通って何だ、とか、僕は真面目に口に出したら周りは笑っちゃうけど、実際、其れも似たようなもんだ。僕は父親から昔、お前は普通じゃない。って(弾みで口にしたんだろうけど)言われた事を、毎日、本当に毎日忘れる事が出来ずに過ごしてる(なかなかしんどい)。僕だって普通になりたくて、当たり前の事を当たり前に熟したくて、そこそこ努力はしたんだぜ。でも、僕の言う普通ってなんだ。当たり前って、なんだ。敢えて明記するけど、此れは開き直りじゃないし、其処に縛られて論点をズラすような事はしたくないし、されたくない。なので話を戻そう。僕の言う普通っていうのは、ぼんやりと浮かんではみるけれど、此れという明確なモノは言えないし、当たり前だってのもよく分かんない。僕からしたら、父親だって充分におかしい所はたくさんあるし(具体的に書こうとしたけど可哀想だからやーめた)、普通じゃないだろって、僕こそ言いたい。お互いに「父親ならば」「普通だったら」「子供なら」なんて正論を振り翳す様に押し付ける其れは、理想論だろ。理想上の「父親ならば」、理想上の「普通だったら」、理想上の「子供ならば」。求めてしまう事を正論の様に偽って拵えて、でも其れは経験則から生まれた、ただの一個人の考えだ。オトナが大人の自覚が無い様に、男はいつの間にか父と呼ばれ、毎日鏡で見慣れた顔の変化に気付かないフリをして、子供だけが大きくなった様な気になってしまう。僕は父親の批判をしたい訳じゃ無い、ただ、大人と呼ばれるオトナ達は色んな所で同じ様な部分があるんだろうな、って。政治家と呼ばれるオトナ、社長と呼ばれるオトナ、身近に居る、オトナ。嘆いてばかりでは何も生まれない、大切なのは受け入れる事。昔出した答えを引っ張り出して並べるのなら、他のも一緒に取り出して、僕の目に見える世界は、間違いなく僕だけの世界だし、君の目に見える世界は、間違いなく君の世界である(昔の記事に載ってるよ)。僕の世界には僕のルールがあって、君の世界には君のルールがある。だから、譲れないモノを譲らずに、大切なモノを大切にすればいい(此れも昔の記事に載ってるよ)。でも、自由と自分勝手は違うから(此れもやっぱり昔の記事に載ってるよ)、大切な事は、受け入れる事(一周)。僕は僕を受け入れる、人におかしいと言われる僕を。そして僕は僕の世界、僕の当たり前を大切にする。そしてその結果、誰かに非を唱えられても、僕を受け入れた僕を、僕が受け入れる。そして、非を唱えた側にも、其の中の世界があり、其の世界の当たり前がある。だから事情を受け入れるし、「弾みだったんじゃないかな」みたいに、誰かの事情も推測するよ。僕は非を受け入れる、だから、非も僕を受け入れてほしい。そしてもし君が、誰かに受け入れられたかったり、認めてもらいたい時が来たなら、まず君が、誰かを受け入れたり、何かを認めてあげてほしい。見返り(と呼ぶのもおかしな話だけど)は、すぐには訪れないかもしれない。其の瞬間は訪れないかもしれない。でも、誰かを受け入れようとした君は、もう君自身を受け入れてる筈だから。理解の先にあるのがきっと、相互理解。憂いや悲しみよりも、そっちの方が幾分か楽しそうじゃない?
未来を生きる子供達よ。此の文章は、届かないと思う。でももし万が一、届いた場合。或いは今を生きるコドモ達が目にしてくれたのなら。ぶっちゃけて言うけど、気付いた方が損するよ!だって相手が同じ様に思ってるなんて、有り得ない確率の方が高いでしょ!でももし、僕の文章だけじゃない、此れから出会うたくさんの本や文字、映画、人の言葉。全てを鵜呑みにしないとも、自分の中で引っ掛かる事があったなら。其れを大事に温めて欲しい。そして君は君の、僕は僕の世界を築こうぜ。未来を生きる子供達、その存在が、無限の可能性を秘めてるんだ。正直羨ましい。でも、だからこそ。大切なモノは、自分で何が大切かを判断しておくれ。結局はお前も無責任と呼ばれて結構。僕は僕と杏を前に進める。
久しぶりに書くとやっぱり駄文、まぁ、いいや。それでは、また。
by h_hamakawa
| 2018-07-23 22:46